乗国寺の由緒

 
 

乗国寺は「見龍山覚心院(かくしんいん)乗国寺」といい、曹洞宗に属する禅寺で、結城家(ゆうきけ)の菩提所として開創された。


 戦国争乱の室町時代、「結城合戦」で結城家十一代氏朝(うじとも)公 、十二代持朝(もちとも)公父子は戦いに敗れ自らの命を絶った。嘉吉(かきつ)元年(1441)の四月十六日のことである。


 乗国寺はもと福厳寺(ふくごんじ)という。結城合戦の時すでに福厳寺はあった。「福厳寺口」と呼ばれる結城城(ゆうきじょう)の東の出入り口にある寺で、この辺りで大きな合戦があったといわれる。宝徳(ほうとく)元年(1449)開山(かいさん)に松庵宗榮(しょうあんしゅうえい)禅師が招かれ、持朝公の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う寺となる。持朝公は開基(かいき)となり、法名(ほうみょう)「福厳寺殿天英聖勇大禅定門(ふくごんじでんてんえいしょうゆうだいぜんじょうもん)」の御位牌(ごいはい)が安置されたのである。寺は三国山(みくにざん)福厳寺となる。三国山とは常陸(ひたち)・下総(しもうさ)・下野(しもつけ)の三国の事で、その境界の上に建立(こんりゅう)されたことを示すために山号としたといわれる。


 『乗国寺起立』によれば、福厳寺は鬼怒川と田川に挟まれた処にあり、度々洪水があった。文明十一年(1479)の大洪水では伽藍(がらん)を失い、ただちに結城家十四代氏広(うじひろ)公は現在地の上小塙(かみこばな)に移転して、見龍山覚心院乗国寺と改称し再興されたという。氏広公の法名「乗国寺殿日峯宗光大禅定門(じょうこくじでんにっぽうしゅうこうだいせんじょうもん)」は乗国寺を保護してきた中興開基(ちゅうこうかいき)としての証である。以後、十六代政勝(まさかつ)公、十七代晴朝(はるとも)公の格別の帰依を受け、結城家の位牌所(いはいじょ)としての乗国寺は確立していった。また、徳川家康の次男秀康(ひでやす)が結城家の養子となった縁から、徳川幕府より格別の計らいがあり、乗国寺には御朱印(ごしゅいん)六十一石(こく)六斗(と)八升(しょう)の寺領(じりょう)を賜っている。


 当山の鎮守(ちんじゅ)は健田(たけだ)神社であった。結城本郷(ゆうきほんごう)の地にあり、結城の総鎮守(そうちんじゅ)として多くの人々から信仰を受け、特に江戸時代の宝暦(ほうれき)十三年(1763)から明治三年(1870)の神仏分離までの間、別当職(べっとうしょく)を乗国寺が努め管轄(かんかつ)していた。その後、健田神社は移転統合され、結城市浦町(うらまち)に健田須賀(たけだすが)神社として創建されている。


 近年、様々(さまざま)な表情をしている五百羅漢(ごひゃくらかん)を境内(けいだい)のあちこちに見る事ができる。これは現住臥雲仙舟(げんじゅうがうんせんしゅう){鈴木}の下、信仰厚い檀信徒(だんしんと)たちがそれぞれ発願(ほつがん)して寄進したものである。


 また乗国寺では本堂の後ろに坐禅堂を建立した。念願であった坐禅修行のできる寺として漸(ようや)く実現したものである。坐禅をしたい人のためには、正式な参禅指導を行っている。

 
 
inserted by FC2 system